| 8月15日〜夏休み4日目 | ||||
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昨日の怠惰な生活から打って変わり、 朝5時起きで、友人と「信玄巡り」と題した山梨散策へフラリ。 沼津から甲府市内まで、早い時間に出て渋滞を避ければ、 車で2時間もかからずに着いてしまいます。 一山越えるので遠い印象があるのですが、意外に近いんですよ。 さて、今回散策してきた場所を簡単に説明していきましょう。 1330年、夢窓国師によって開山される。 鎌倉当時の禅宗様式を伝える名園として名高い他、 武田家滅亡後、織田信長によって焼き打ちにされたのも有名。 歴史、特に戦国時代に詳しい人なら、 「心頭滅却すれば火もまた涼し」 という言葉を、1度は耳にした経験があるかもしれません。 信長に焼き討ちにされた時、快川和尚が三門で唱えた有名な言葉です。 信玄公の墓もありますが、正直本物なのかは解りません。 私は「諏訪湖に沈めた」派なんで・・・。 ![]()
1919年に信玄を祭神として、信虎・信玄・勝頼の3代に渡って居館とされた 「つつじヶ崎館」の跡地に建立される。 まあ、信玄が存在した当時から続く神社ではないため、 正直なところ神社自体に感動はあまりありません。 ただ、驚いたのが、 1915年に「従三位」を贈られていた事。 大正時代に武田晴信に対して贈られているんですよ。 それを機に、社殿の造営を行ったそうです。 近代になってから館跡に作られたのは知っていましたが、 こんなドラマがあったとは・・・。 行ってみないと解らない事って沢山ありますね、やっぱり。 (それとも、私が無知なだけでしょうか??) 余談ですが、勝頼って評価が低すぎませんかね。 確かに、武田家滅亡時の当主は勝頼ですし、 長篠の合戦で大敗を喫した時の当主も勝頼です。 ただ、歴史上、鉄砲戦の新機軸が顕著に解る合戦として、 長篠が挙げられているだけであり、負けた側と言うだけで 勝頼が評価されているよう思えます。 武田家を滅亡へと導いたのも、 実際は家臣が「信玄の威光」を捨て切れなかったことが 直接の原因だったと思いますし。 というわけで、私は勝頼に対して結構高い評価をしています。 徳川家康か豊臣秀吉かで議論は2つに分かれているようです。 少なくとも、武田家滅亡後ではあるのですが。 (信玄は甲斐に城を作りませんでしたから) まだ所々が工事中でしたが、 とりあえず天守閣跡っぽい所までは登る事ができました。 (甲府城には天守閣が無かったという説もあるそうですね) 奇麗に整備された公園になるようです。 ライトアップされる装置も付いていましたし。 (ただし、ライトアップされるのはどう見ても石垣だけ) しかも、友人が石垣の石を引っ張ったら、見事に抜けました。 後先、色々な意味で期待できる公園だと思います。 あれ?「信玄巡り」とはかけ離れているスポットのような気が・・・ ![]() こちらも信玄とは全く関係がありませんが、 時間もあったので行ってみる事にしました。 身延山久遠寺は、鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺です。 日本史をかじったことのある方であれば、 日蓮聖人と言う名は御存知でしょう。「法華経」を唱えた方です。 しかし、鎌倉幕府に提言をするも残念ながら受け入れられず、 「山林に身を隠せ」との古事に従ってここ身延山に入山し、久遠寺を建立。 それから病に冒されるまでの9年間を過ごした場所であります。 さて、この久遠寺に辿り着くまで、 三門から果てしない距離の階段を登らなければなりません。 菩提梯と呼ばれるこの階段は、 「南無妙法蓮華経」になぞらえ7区画に分かれ、 高さ104m、287段、からなる非常に急な階段です。 この段を登りきった時に覚りの喜びが生ずるそうなのですが、 はっきり言ってそれどころではありません。 かなりヘヴィです。 階段を撮った写真を掲載してありますので、 詳しくはそちらをご覧になって、ヘヴィさを実感してみて下さい。
家の用事で夕方には帰宅。 正味12時間の旅、有意義な時を過ごす事が出来ました。 やっぱりいいですね〜、旅は。 夜は少し仮眠した後、母親と近況報告&今後の人生についてを語りました。 「自分の行動に責任を持てるなら、自分の思う通りにやりなさい。」 昔も今も母親の言う事は変わらないですが、私が大人になった分、 その言葉の意味が凄くよく実感できるようになりました。 そろそろ1人前の人間として認められたのかなあ・・・ 結局、深夜2時まで親子水入らずの時を過ごしました。 |
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